第八話 パリパリと空中に小さな稲光が走る。渦を描きながら黒い石に吸収されていく光。 しかし、石の下の青い池に変化はない。 落胆のため息があちらこちらから聞こえてくる。 「ふむ…変化なしですな。」 「魔力は全て無効化される、と。お手上げですねぇ…」 研究者たちは黒く沈黙した石の周りでああだこうだと理論し合っている。 僕は欠伸を一つして窓辺に凭れたまま外を見やる。 無駄だよ、いくらいじくり回したって。それはあの子がいなきゃ使えないんだから。 発動時は見ていないけれど、赤く輝いていたあれが黒く沈黙する瞬間を僕は見ている。 「ふわあ…」 つまらない。 欠伸がさっきから止まらない。本当に退屈だ。 大体、僕はこんな石に興味は無いんだ。あの子狐早く来ないかな… 「早く、あれで遊びたい。」 * * * * 湯気の立つ薬湯のカップを口元に突きつける。 すると、ぷいと横を向く子供に溜め息をつく。 「毒なんか入ってないよ?」 薄荷の匂いのするそれを一口飲んで見せる。 けれど子狐は警戒した目のままカップを受け取ろうとしない。 食事には素直に手を付けるのに… 「ツナヨシ。これは喉に効くものだよ。痛いんだろ?」 「やだ」とばかりにぶんぶんと首を振る。 喉に効果があるのは本当なんだけどね。………ちょっと『副作用』もあるけど。 カップを睨んだままのツナヨシに試しに別のカップを差し出す。 するとそっちは素直に受け取った。『副作用』の無い方は。 猫舌なのか湯気の出るそれをちょびちょびと飲む仔狐を眺めながら、拒否されたカップの香りを確かめる。 ……こんな少量の薬にも気付くなんてどんな嗅覚をしているんだか。 「無味無臭なのを選んだんだけど。」 「お前も諦めないな…」 コンコン、と開け放してある扉を叩く男に眇めた目を向ける。 声をかけるより先にノックをしろといつも言ってる筈なんだけど。 「よっ、ツナ!」 胡散臭い笑顔の男にツナヨシはつられたようにはんなりと笑う。 跳ね馬は自分の部屋のように遠慮会釈なくズカズカと入り込んで来ると仔狐の頭を撫でる。 「よしよし。怖いおじちゃんに虐められてねぇか?」 「誰がおじちゃんか。」 たかだか10年かそこら離れた人間におじちゃん呼ばわりされる覚えはない。 大体自分の方が年上だろう。僕がおじちゃんならおじいちゃんか。 「何しに来たの。この子ならまだ使えないよ。」 「恭弥といいお前といい、いちいち煩い奴だな…。」 「可愛いのはツナだけだな〜」などとほざく男に抱きつかれながらツナヨシは大人しく薬湯を飲んでいる。 さっきの薬のように意思表示ははっきりするものの、隠し部屋や船の中での暴れようが嘘のように今は大人しい。 跳ね馬の過剰なスキンシップにもぬいぐるみのようにされるがままだ。 何か企んでいるのか…相変わらず思考は読めない子どもだ。 油断はできない。 ツナヨシを観察していると視線がかち合う。 「ん?なんだ?」 「……全部飲んだね。」 ずい、と突き出されたカップを受け取り中身が空なことを確認する。 飲み干すか疑って見てたわけじゃないんだけど…まあいいか。 「まあだ喉治らねぇのか…」 「熊も殺す猛毒だからね。喉だけで済んだことの方が奇跡だよ。」 それにしても跳ね馬の言うとおり治りが遅い気がしなくも無いんだけどね… 食事の為に外していた手錠をかけ直す。これにもツナヨシはされるがままだ。 それどころかぼてりと寝台に倒れ込んですっかり寝る体勢になっている。 喉が癒えるまで害されることは無いと分かっているにしても敵を前によく寝れるね… 神経が図太いだけなのか。流石はジョットの弟… 「借りてきた猫みてぇに大人しいな。」 寝息を立て始めたツナヨシを残して部屋を出る。 扉を閉めた途端に跳ね馬は腑抜けた顔から真顔に戻る。 この男の百面相っぷりはまさに「面」を付け替えるようだ。 僕より余程諜報員に向いていると思う。 「隙を伺っている……ってわけでも無さそうだな。」 「いくらでもチャンスはあるのに一向に行動に移さないしね。」 食事中や入浴中に手錠を外してやっても、部屋の鍵を開け放しても、こうやって一人にしてもツナヨシに動く気は無さそうだ。 食事の食器も金属のナイフやフォークを出しているのだが武器にしようなどとは考えもしないようだ。 ならば全てを諦めたのかと言えばそうでも無いらしい。 薬の類、殺気には敏感だし、医者を嫌がるので喉の具合も分からない。 偶にかち合う、あの子狐の伏し目がちな視線。 そこに宿る不穏な光からだけ、僅かな抵抗を読み取れる。 「…まるで籠城戦のようだね。」 「籠城?ツナがか?」 「そう。」 固く閉ざした殻に籠もる少年。 ツナヨシの砦は『声』のみ。 どうやって崩してやろうかと考えるだけで楽しみだ。 「ちょっと。」 不機嫌な声に振り返ればやはり不機嫌な顔の弟。 やれやれ……捕まらないように気をつけてたんだけど。 「いつまで待たせるつもりだい。」 「待たせるも何も。ツナヨシの喉が治るまでは出せないと言った筈だけど。」 「その人はよくてなんで僕は駄目なの。」 ギロリと睨まれた跳ね馬が肩を竦める。 彼にも許可を出した覚えはない。勝手に来てるだけだ。 そして僕に彼を止める権限など無い。 「これでも最高権力者ですし。」 「……『これでも』はいらねぇよ。 大体、俺はツナをいじめて遊ぶ気はねぇからな。あいつを壊されちゃ困る。」 「今は、の話でしょ。」 「んなことねぇよ。個人的にも気に入ってんだ。」 傍目には爽やかにも見える笑顔でそういう男から、今出てきた扉に視線を移す。 ……それはそれで気の毒にと思う。 * * * * 部屋の前の気配が移動していく。 閉じていた目を開いて体を起こす。 扉を見つめ、本当に誰もいないかを探る。一応、念の為。 「………。」 首に巻かれた包帯に触れる。 痛みは大分薄れてきた。けれど……声はまだ出ない。 出ないことに安心する。あれほど望んでた回復が今は怖い。 アラウディは俺が結界石の主だと言った。だからその情報が欲しいとも。 あの時は必死だったから考えられなかったけど、もしかしたらそうなのかもしれない。 でもそうだとしても俺はなにも分からない。 あの人達が期待するような情報なんて俺は何ひとつ持っていない。 声が出ようが出まいが同じなのに。 「っ……」 体勢を変えようとしてずきりと痛みが走る。 左足にも巻かれた包帯。あの逃走劇で負わされた怪我だ。 こっちの痛みも大分マシになった。けど立とうとすれば神経を貫かれるように痛い。 歩く、それに走るなんてとても出来そうにない。あの時は必死すぎていろいろ麻痺してたんだと思う。 「……はぁ……」 足と喉。どっちが治るのが先だろう。 こんな遠い国から帰ることなんて、もう諦めてる。 帰れるものから帰りたい。けどあの海を見た後じゃあね。諦めるしかないよ。 ………それに俺が動きたいのはそんな感傷的な理由じゃない。 「…………」 目を瞑るとかすかに感じる。 在るべき場所から遠く離れて、弱まってしまった僅かな力で、それでも俺を呼んでいる「声」。 この国……いやこの城にある結界石が、ずっと呼んでる。 なんて言ってるのかはわからない。 でも「行かなくては」と思わせる。 俺は無理でも、あの石だけは……… 続く… |