第十二話





パン、と風船が破裂したような音が響く。
見えない壁が消失して、体当たりをしようとしていた俺は廊下に転がり出てしまった。


「?なんで急に…ぐっ…!」


ズン、と体が急に重くなる。
何か来たのかと思ったけれど、衝撃は一瞬で………あ!慌てて近くの手洗い場の鏡を覗き込む。

四角い世界に反転して写り込む俺の体。手も表情もおかしな所はない。


「影が、戻ったんだ…!」


良かった〜…

影が無いのってあんなに不安定なんだ。自分が希薄になって、消えてしまいそうな感じ。

なのに雲雀さんはずっと平然とした顔してたんだね…

体に馴染む現実感。自分の手を見つめてきゅ、と拳を握る。

俺じゃ無理だよ…耐えられない。


「!」


保健室の窓から廊下まで届く月明かり。それがふいに陰る。

そこにくっきりと浮かぶ人影。丁度、俺の後ろに…!!


「っ!」

「わ。」


振り向き様に伸びてきた腕を払う。虚を突くことに成功し、距離を取る。

相手の顔を睨みあげれば少し驚いた顔の『恭弥』が。


「……おかしいな。いつもは気付かないのに。」


不思議でしょうがないって顔でそう呟く。

自分の足元を見下ろして「ああ」と納得したように笑う。


「やっぱり、影があると気配も濃くなるのかな。完全な実体なんて久し振りだから忘れてたよ。」

「………」


存在感がある『恭弥』は鏡の向こうと違って、本当にただの人にしか感じられない。

それが、逆に不気味でしょうがない。

元々雲雀さんは影が半分しかない人だった。強いけれど、儚い人。そんなイメージ。

でも今の『恭弥』ははっきりくっきりそこにいるのが…あの人とは別の『何か』であることを嫌でも感じさせ…


「!」


長く伸びる影法師。ぞくり、と悪寒に身を震わせる。

影!!『恭弥』の影があるのは何故!?雲雀さんは!?

今、影は雲雀さんの筈…!!


「不思議かい?」


コツ…


「綱吉。」

「っ…」


ゆらりと陽炎が揺れるように『恭弥』。生きているのに、生気が無いその動き。

一番身近にいた一番信じてる一番大切な人が異質なものに変わってしまった事実に足が竦む。

ずりずりと後ろに下がるも、逃げても終わりのない絶望感がじわじわと背筋を這い登る。


目的のためにと『恭弥』に奪われ突如戻った影。

閉じ込められていた無力な空白の時間。

確固たる実態を得た悪霊。


それらを合わせれば、何があったかなんて想像するまでもない。

青ざめているに違いない俺の顔を見て『恭弥』は愉しげに口角を歪ませる。


「そんな顔することないよ。あれは在るべき姿に戻っただけだ。僕がいるから寂しくはないよね。」

「あれって…雲雀さんは!」

「ただの影に名前は必要ないだろ。そんなことより…これで本当に」


カツン…


「二人きりだ、綱吉。」

「っ……!!」


ぞわりと空気が変わった気がした。背を冷たい汗が伝う。

ピリピリと張り詰めた静かすぎる空間。この感覚、覚えがある…

鏡の向こうの世界。『恭弥』の領域。それが現実になっている……?


カツン…


「!」


一歩一歩近づいてくる鬼。逃げなきゃ…


「ぅわっ!!」


走り出そうと踏み出し派手に転倒する。

なに…?今、足になにか絡みついて…
解こうと手を伸ばし、それの正体に気付く。


「ひっ…!」


床から伸びた白い腕。それが俺の足首を掴んでいる。

もう片方の足で蹴ろうとすると床からずるりともう一本腕が伸びてくる。


「足癖が悪いよ、綱吉。ほら怒っちゃった。」

「っっ…!!」


二本の腕の間の床から、黒い塊が……って違う!人間の頭…!?

水面から出るように徐々にその姿が見えてくる。ボサボサの髪、青白い額、長い前髪の隙間から覗く血走った眼。

鼻まで床の上に出た所で目があった。

ニタリと笑ったのが分かる。


「うっ…あ…!」


ずるりと捕まれた両足を引かれる。

ヤバい!!ヤバイ、ヤバイよこれ!!引きずり込まれる!!

リノリウムの床に爪を立てる。けど、なんの意味もなさない。


「君が足掻く姿を見るのもこれで最後か…ちょっと残念。怯える君を苛めるのはなかなか楽しかったのに。」


引きずり込まれないよう必死になる俺の耳に場にそぐわない『恭弥』の呑気な声が聞こえてくる。


「くっ…」

「ああ…そうだ。あっちでも鬼ごっこして遊ぼうか。時間はたっぷりあるからいろんなことをして遊ぼう。」


ね、綱吉。

そう楽しそうに囁く怨霊。賛成できるわけがない!!

肌に貼りつくリノリウムの性質と剥き出しの腕のおかげでなんとか完全に引き込まれずに保ってるけど、もう…


シャラ…


「あ!」


忘れてた!!

右の手首に巻きついた包帯。それがズレて銀色の鈴が覗く。

『恭弥』が音を封じる為に巻いてたんだ…!

俺は歯で包帯を解くと鈴を床に生える頭に投げつける。


『ギャアアアアアアアァァァ!!!!!!』

「!」


よし、効いた!

頭は俺の足を離してもがくと、そのまま床に沈んでいった。

慌てて起き上がって鈴を拾い脇目もふらずに走り出す。


「綱吉!」


嫌だ、振り向かない!

呼び止める声を無視してひたすら走る。


「無駄だよ!どこへ逃げようとすぐに見つけてみせる!もう助けは来ない。」

「っ…」


背に投げかけられた言葉。

雲雀さん…!本当にもういないの…?俺には信じられない…!

一人になると心細くなる。そうすると嫌な考えばかり浮かんでしまう。

それを振り払うようにがむしゃらに廊下を走り階段を駆け上がり駆け下り渡り廊下をひた走る。


「わっ!」


走って走って、足がもつれて盛大に転ぶ。

止まれば走りすぎた喉と肺の痛みが戻ってくる。

そして目からじわじわと溢れそうになる……


















――絶対に追いかけるから。――
――見えなくても、いるから。――


















「……」


ごしごしと乱暴に瞼をこする。

そうだ、泣いてる場合じゃない!『恭弥』の言うことに踊らされてどうするんだ!

雲雀さんが追いかけるって言ったら追いかけてくるに決まってる。こんなとこ見られたら「勝手に殺すな」って怒られちゃうよ。

ぺしんと両頬を叩いて立ち上がる。

やることは決まってる。雲雀さんとの作戦通りに鏡で…


「……あれ?」


ポケットに手を突っ込んで気付いた。

何も入ってない…

あれ?さっき確かに…

パタパタとブレザーもシャツもズボンも叩いてみる。やっぱり、無い。

転んだ拍子にどこか飛んでいっちゃったのか…って割れてたら大変じゃん!!

暗がりの中、鏡を手探りで探し始める。

派手に転んだからどこまでいっちゃったのか













「お探しものはこれかな?」













ビクリと肩が跳ねる。

今一番聞きたくて一番聞きたくない声。

背に感じる空気で声の主を見なくてもどっちだか分かる。聞きたくない方の声だ。

ゆっくりと振り返る。

水道の流し場に腰掛ける『恭弥』。手の中で鏡をくるくる回して遊んでいる。


「言ったはずだよ、無駄だって。どこに逃げても君の居場所はすぐに分かる。」

「…………鏡…」

「ああこれ?さっき君が落として行ったんだよ。だから届けてあげようかと。」


ぽんと放られた鏡。慌てて手を伸ばして受け取る。

鏡面は割れてない。良かった…けど。

呑気に欠伸をしているブレザー姿の『恭弥』を伺い見る。ああしていると雲雀さんにしか見えない。

俺たちが鏡を探してた理由なんて分かってる筈…それをあっさり返すってことは、余裕綽々なんだ…


「いいの?」

「え…」


組んだ足に肘を突き、『恭弥』はニヤニヤと俺を指差す。


「逃げなくていいの?もう殺していい?」

「そんなの…っ!」

「じゃあ早く逃げなよ。折角だから最後の鬼ごっこをしようよ。」

「…最後…」

「うん。30秒待ってあげる。ぐずぐずしてると次の悪霊が来るよ。」

「…っ!」


さっきの床から生えてた頭を思い出す。

いくら鈴があるとはいえあんなのがうじゃうじゃ出てきたら対処できない!

愉しげな『恭弥』を睨んで立ち上がる。俺が足掻いてるのがそんなに面白いのか…性格悪い。

…………………………雲雀さんもだけど。


「やる気になった?じゃ、始めるよ。」


「1、2…」とカウントが始まる。

とにかく、まずは『恭弥』から離れる!

鏡を内ポケットに流し込み来た道を逆走する。





ガシャン!!!!




「!」


三歩進むか進まない内にすぐ脇の窓ガラスを突き破り黒い塊が飛び込んでくる。

そんな…もう来たの!?


「ほ〜ら、綱吉がぐずぐずしてるから。」

「うわっ…!?」


なま温かい塊は破片を防ぐ為に振り上げた腕にびたりと貼りついた。よりによって鈴の方に…!

引き剥がそうとそれに触れる。

するとなんだか覚えのある毛触りが…?


「フーッ!!」

「!!キョウ!?」


腕に張り付いていたのは家に居るはずの見慣れたヒマラヤン。

でもいつもの可愛らしい素振りはなく、ギラギラした敵意剥き出しの眼で鈴と御守りの腕輪に食らいついている。

手を伸ばせば前足の鋭い爪で攻撃しようとしてくる。

そんな…お前まであっち側に…!?


「キョウ!やめろ!離せ!」

『外せ…これを外せ!』

「嫌だ!」


雲雀さんの御守りと鈴だけは…絶対外さない!!


『こんなもの捨てろ!!必要ない!』

「できない!」

『おとなしく言うことを聞け!』

「やだ!雲雀さんが遺してくれたものなんだから」





『勝手に殺すな!』





え……?

さっき想像してたまんまの台詞。

右腕を見下ろす。じっとこちらを見ている猫の眼とかち合う。

…違う。敵意じゃない。これ、こういう目つきなんだ…


「ひ…」


そしてこんな目つきの人間は一人しか思いつかない。


「雲雀、さん………?」


腕輪にかぶりついたまま、ヒマラヤンが目を瞬かせる。


『なに。』









続く…





←back■next→