第八話






「…恭弥。やはり私が行こう。」


綱吉を車に乗せた後。父さんはそう言って僕の肩に手を乗せる。


「無理だよ。僕以外の人間にどうにか出来るわけがない。」


窓から不安そうにこちらを見る綱吉。

その姿を目に焼き付けて視線を父親に移す。


「それにね。あいつは僕の体にも宿れるんだ。尚更綱吉の側にいられないよ。」

「そうか…」

「うん。」


父さんは強く僕の両肩を掴むと黙って車に向かう。

綱吉の唇が僕の名を象った。

それに気付かないフリをして僕は走り去る車に背を向けた。

生徒達が遊んでいるグランドを抜け昇降口に入る。

賑やかな校舎。だけど僕だけ別の世界に居るような感覚だ。


「………」


ここで対峙するのは嫌だな。この学校に傷つけたくないし。

僕はチラリと何も写らない窓ガラスを見ると東の階段に向かった。





一階と二階を繋ぐ踊場。昼間でもここだけは静かだ。

この鏡のせいかな。そういう気配は察知するんだよね、人は霊感なくてもさ。

僕は鏡にぺたりと右手をついた。

目を閉じて深い呼吸を繰り返し、頭の中にこの鏡の向こうに自分がいる姿を思い浮かべる。

右手が水に浸かるように鏡に沈んでいく。

手首まで入ったところでパン、と音が響いた。

崩れ落ちる体と羽が生えたように軽くなる体。

矛盾する感覚の後スルリと膜を通り抜ける。

…成功かな。

目を開き後ろを振り向く。

今まで目の前にあった筈の鏡とその向こうでうつぶせに倒れている僕の体。

幽体離脱。僕は綱吉と違って生身ではこちらに入れないからね。

体は…まあ誰か気付けば応接室なり保健室なりに転がしておくだろ。

鏡から離れると応接室に向かう。

こちらでもあいつのねぐらになっている筈だ。


* * * *


「あ…雨…」


庭先にしゃがんでぼ〜っと外を眺めていたら頬にポツリと冷たい滴が落ちる。

雲雀さん、どうする気かな…『恭弥』と戦う気なのかな。

ぱたぱたと大粒の雨が降っているけれど俺は動く気も起きなくてそこにうずくまる。


「にゃあ。」

「ん…」


顔を上げるとキョウが塀の上にいた。

…雲雀さんちはそれ自体が結界だと聞いている。

キョウは『恭弥』が宿っているから近付けない筈…


「!」


はっとして顔を飼い猫に向ける。キョウは呑気に欠伸なんかしてる。


「キョウ、おいで。」


両手を広げると小さなヒマラヤンはぴょいと俺に飛び込んできた。

ぐるぐると喉を鳴らすキョウからはいつもの冷えた気を感じられない。

ただの猫になってる…


「綱吉くん、雨が降ってきたわ。中に…」


雲雀のおばさんが俺を呼んでる。

俺は足早に室内に戻るとキョウをおばさんに預けた。


「あらキョウちゃん!うちにまで来るなんて珍しいわね。」

「おばさん、おじさんは…」

「書斎にいるわよ?あ、待って!」


書斎に向かおうとした俺の頭にバサリと何か降ってきた。

……タオル?


「風邪引いちゃうわ。恭弥くんが帰ってきたらお夕飯にしましょうね。

今日は天ぷらにしようと思うの。おばさん、綱吉くんがいるから張り切っちゃったのよ。」


だから楽しみにしててねと綺麗に笑う、おばさん。

彼女は『恭弥』のことも雲雀一族の話も知らない。

だから今日も彼女にとっては何も変わりのない日なんだ。


「あのっ。」

「なあに?」

「…………山芋の天ぷら、たくさん用意してくださいね。俺も雲雀さんも大好きだから。」

「分かったわ。」


くすくす笑いながら去っていく背中。

俺はその背を見送り、書斎に向かった。




「おじさん。」

「!綱吉くんか。」


書斎の床に敷き詰めるように散らばった古い文献。

…居ても立ってもいられないのはおじさんも一緒みたい。

どれも『恭弥』に関するものだ。


「…何も出来ないのが悔しいよ。なぜ私じゃなかったのか…」

「おじさん…」


ぐしゃ、と紙を握りつぶす。

心配で仕方ないんだ。当たり前だよね。

でも俺に感傷に浸る時間はない。


「おじさん。キョウから『彼』の気配が消えました。」

「!!」

「雲雀さん、『恭弥』の力が強くなってるって言ってた。

それって雲雀さんの力が弱まってるってことなんじゃ無いですか?」

「なん、だって!?」


がたりとおじさんが立ち上がった。驚いた表情のまま俺の肩を掴む。


「力が増した!?そう言ったのか?あの子が!!」

「はい。雲雀さんの影がなくなって、逆に『恭弥』は実体を取れるようになってきたみたいで…」

「そんな…!!」


目を見開き、おじさんはひゅっと息を吸い込んだ。雲雀さんとよく似た顔が青くなる。


ガタンッ!!


「おじさん!?」

「止めなくては!行かせるんじゃなかった!離してくれ、綱吉くん!!」

「行くって…」

「学校へ!!あの子を止めなくては!」


常の冷静な姿が嘘のようだ。

でも、駄目だ。おじさんじゃ駄目なんだ!!


「待って!おじさんじゃダメだっ!!だってあちらに入れるのは雲雀さんだけなんでしょう!?おじさんじゃ止められない!!」

「!」


ぴたり、とおじさんが足掻くのを止めた。

ほっとして手を離すと彼はずるりとその場に膝をついた。

微動だにしない背に俺は声をかけるのが躊躇われてただ立ち尽くす。


「……………………あの子は。」

「?」


どれくらい過ぎたか。お互いの息が平常に戻ったころにおじさんが口を開いた。


「あの子はそう生きられないと私は思っていた。鬼に乗っ取られてしまえば私が倒すしかないと。

しかし10を越え15を越え、私はそんなことを忘れただあの子の成長が楽しみでならなかった。

どんな大人になるのか。想像するだけで幸せだった。」

「………………」

「何故今更!今更あの子の命を吸い取るような真似を…」


ぱたり、と床に滴が落ちる。

…男の人が泣くのを初めて見た。

俺は足元の巻物を拾い上げた。まだ人だった『恭弥』の物語が書かれてる。

雲雀さんと何一つ変わらない、ただ少し変わった力を使えるだけの少年。


「……………」


机に飾られた、おじさんとおばさんの若い頃の写真。

膝の上にまだちいさな黒髪の赤ん坊。

今頃、階下で何も知らないおばさんが夕飯の支度をしている筈だ。

雲雀さんの帰宅を何一つ疑うことなく。


おじさんは伏したまま肩を震わせている。

わかる。何も出来ないのは辛い。

俺もいつも何も出来なくて…


ついとおじさんから視線を逸らす。すると視界に鏡が入る。


「……………」


鏡の中の自分を見つめていて思い出す。


違う。

俺は何も出来なくはない。

むしろこうなった今俺にしか出来ない。


「っ…。」


腕輪に触れ冷たい感触を確かめる。



俺は、鏡の向こうへいける。

この体を持ったまま、あの人を止めに行ける―――。


* * * *


「…こちらはいつも夜だね。」


月を見上げていたら背後か声がかかる。

振り向くまでもない。とうとう来たね。


「僕が好きだからね。でも今は太陽も好きだ。」

「あの子に、似合うから?」

「…そうだよ。」


革張りの椅子から立ち上がり遠い子孫の顔を見つめる。


「…珍しい訪問だね。何か用かな。」

「僕の体を使っただろう。使用料をもらいに来たのさ。」

「ふ〜ん?」


ジャラリと長い水晶の数珠を取り出し逆手に短刀をもつ。

お神酒で清めてあるね…


「使用料はあなたの命でいいよ。」

「格安だね。」

「そうでしょ。僕は優しいからね。」

「なら僕はお釣りに君の死体をつけてあげる。」

「ワォ。豪華だね。」


不敵に笑い合いながら僕は斧を取り出し構えた。

これもあの凶行に使われた凶器だ。


「君が来てくれて助かるよ。どうやって綱吉を迎えに行こうか悩んでたんだ。これで堂々と迎えに行ける。」

「…させないよ。」


彼の顔から笑みが消えた。でも僕も本気だから。

冷たい空気が頬を撫でる。


――だれにも気付かれない戦いが始まる。








続く…





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