第三十話 ナイフで指先を切りつけ、ぷくりと玉になる血を一滴水盆に垂らす。 水面の上で腕を振れば焦がれ望んだ子犬の姿が浮かぶ。 だがそれも一瞬ですぐに青い靄にかき消されてしまう。 「…またか。」 苛々と爪を咬み忌々しい青を睨みつける。 獄寺と天界人から離れた綱吉はあちらこちらでその姿を目撃されている。 報告によればあの聖血もあの子と共に行動しているらしい。 目立つ二人組だ、すぐに見つかり捕まると思っていた。 しかし僕の予測に反して彼らはまだ逃走を続けている。 雲雀はかなり強力な相手らしく部下たちは悉く撃退されているらしい。 ならば自ら出向こうと占じてみればご覧の通りの散々たる有り様だ。 天界の守りから外れた綱吉だったがまた違う何かに守られているようだ。 以前のように完璧とはいかないものの遠見の術は全て無効にされる。 「…僕より上位の者の仕業でしょうか。」 水面を指で弾く。 僕を嘲笑うかのように銀の鯉が靄の中で身をくねらせていた。 * * * * 「…毎度毎度…どこで見てやがんだ…」 獄寺が苛立たしげに長椅子を蹴り上げる。 こいつ気ぃ短いよな…神父らしくないっつーか。 『…獄寺。ヤンキーじゃねぇんだからよ、その態度と言動は慎めっつってんだろ。』 「るせぇ。」 いや、ヤンキーだろ、こいつは。 まあ獄寺の機嫌が悪いのも仕方ないけどな。 「んな扱い受けていい子ぶってられると思うか!」 『それはお前が空間転移なんかするからだろ…』 獄寺の足元には直径1mの複雑な陣が描かれている。 魔族を捕らえる…なんだったか、確か足止め目的の陣だった筈だ。 俺達はあれから獄寺の勘を頼りにツナ達を探そうとしたのだが次の町に着いて直ぐに教団に捕まってしまった。 どうやら雲雀と獄寺は教団にとって重要な存在らしい。 俺も気付かなかったが四六時中、見張りがついていたようだ。 しかし聖都へのルートから外れるといちいちこうやって捕まるのか…? 面倒くせぇ組織だな… 『また変わった顔触れだよなぁ。どこで集めたんだ、そいつらは。』 「こうしてる時間が惜しいっつてんだろ、馬!」 「落ち着いてください、獄寺殿!」 『とうとう馬呼ばわりかよ…』 金髪のお偉いさん――騎士団長だったか?――は苦笑を浮かべながら頭を掻いている。 ヘラヘラしてっけど…隙がねぇ。 ぎゃあぎゃあと騒ぐ獄寺の後ろから神鏡に映る男を観察する。 笑ってても何考えてんだかわかったもんじゃねぇよな。 こういう裏表ある人間は好きじゃねぇんだよ、俺。 視線に気付いたのだろう。団長と目が合う。俺はヘラリと笑った。 「ども。」 『おう。お前…人間じゃないな。』 「戸籍はあるんスけど。山本武っていや結構名が売れてんですが。」 「山本…半魔のハンターの…!」 俺達をここまで連れてきた騎士団の少年がそう呟いた。 金髪はじっと俺を見、次に窓辺で空を見上げている巫女を一瞥して獄寺を見やる。 『まあいい…恭弥はどうした。』 「居なくなった。探そうとしたらてめぇらが邪魔しやがったんだろーが。」 『居なくなった…?』 空気が変わった。 団長が真剣な顔になる。 『それは最近魔族が大群移動してるのと関係あるのか?』 「さーな。あいつの考えてることなんざ知るかよ。 騎士団に入るのが嫌になったんだかなんだか知らねえが逃走を図った。 だから雲雀捕まえようとしてたっつのにとんだ妨害だぜ、騎士団長。」 挑戦的な獄寺の物言いに団長は眉を潜めている。 苛ついてるのは分かるがあからさま過ぎだろ…あっちはお前の上司みたいなもんだろうに。 『…お前にそんな使命感があったとはな。知らなかったぜ。』 「けっ。人を色眼鏡で見るもんじゃねぇぜ。俺は至って真面目なタイプなんだよ。」 どの口が言うか。 「分かったらとっとと解放しろ。早くしねぇと雲雀の居場所が分からなくな」 『いや。恭弥探索は俺の部下が変わる。お前には次の任務だ。』 「「!」」 獄寺が目を見開く。 これは…思っても見なかった展開だ。 「任務…だと?」 『ああ。そこにいる少女、彼女を聖都まで急ぎ連れて戻ってほしい。』 「ナギを?」 名を呼ばれ巫女がこちらを振り返る。 獄寺は神鏡に詰め寄り金髪を睨みつけた。 「…どういうことだ。」 『どうもこうもない。その少女は我々が探していた存在である可能性が高いのだ。』 鏡に映る人物が年配の神経質そうな男に変わった。 …こいつ、当代の神の剣だ。 俺の知ってる神の剣は三人だが中でもいけ好かない野郎だ。 『早々に聖都へその娘を連れて来るのだ。価値があるのか分からん聖血などは後回しにするがいい。』 「いや。行かない。」 いつもは感情を表に出さない巫女が不快感を前面に押し出した声で神鏡を見つめる。 「あの人と一緒じゃなきゃ聖都になんか行かない。」 『教団がお前の力を欲していると言うのにか!こんな名誉な事は無いだろう!』 「知らない。教団なんてどうでもいい。」 『なんと恩知らずな…』 「恩なんて感じたことないわ。私の町には教会なんて無かったもの。」 『なんだと?』 「彼女はカンナギの町のご出身でして。」 団員の少年がそう補足すると神の剣は嘲るような眼差しを巫女に向ける。 『ほう、神無忌の者か。神をも恐れぬ虚言の異端者を多く輩出した偉大な町だな。』 「違う。」 『む?』 「神凪。私達から見たらあなたが異端者。この偽物。」 『何を!?』 気色ばむ神の剣を団長らが取り押さえる。 おいおい。この巫女さんは天使の子なんだぞ… あんたや教皇よかよっぽど徳が高いっつのに名誉も何もあるもんかよ。 俺は今にも槍で鏡を叩き割りそうな巫女の肩を掴んでどうどうと宥める。 こんなに嫌悪感も露わに挑みかかるとは… おっとりしてみえてもプライド高い天界人なんだなぁ… 獄寺は「落ち着け」と巫女を宥めながらも今にも笑い出したげに口角をヒクヒクと震わせている。 ………お前ら自分に正直過ぎだ。 * * * * バシャッ 「ふう…」 水面から顔を出す。気持ちいい。 二日振りの水浴びだ。次はいつ水辺に寄れるか分からないから入念に… 「ふぐぐ…!」 …まだ頑張ってたの。 陸地に上がり荷物を放置しておいた木の根元に戻る。 「綱吉。諦め悪いよ。」 「解いてくださいよ、これ!」 「い・や・だ・ね。」 逃げないよう木の幹と綱吉をロープで繋ぎ、余った部分で両手も縛り上げておいたんだけど… なんだかとっても頑張った結果更に絡みついちゃってるよ、この子。 「こんな汚しちゃって仕方ない子だね。」 「もう逃げませんてば!雲雀さんばっかズルいです!俺も水浴びしたい!」 「…分かったよ。」 ぎゃんぎゃんと喚く綱吉のロープを解いてやる。 そういう面白い反応するからつい遊びたくなるんだよ… 「あんまり長居出来ないからね。」 「はい。」 「…………綱吉。」 「はい?」 「君、服着たまま水浴びする気?」 「はい。そうですけど。」 長靴、ズボンや上着は脱いでいるのに一番下に着ていた薄い布地のチュニックと帯はそのままに川に入ろうとする綱吉。 「これ、脱げないんです。物心ついたときからずっと着てるんですけど。」 「脱げない?なんで。」 「触ってみてください。」 ? よく分からないけれど言われた通りにチュニックに手を伸ばす。 けれど、どうしてか布地をすり抜け綱吉の肌に触れてしまう。 目では確かに布地に触れているのに感触が無いのだ。 「何これ。」 「多分、なんらかの魔力の塊なんじゃないかって。 でも何か効果がある訳じゃないし… 水に濡れないとか体が育つにつれてこれも大きくなってたとかくらいで。 どういう意味があるのかはさっぱり。」 「ふうん。」 この子の装備、変なの多いなぁ… あの巾着袋とか剣とか水晶水とか。 バシャバシャと泳ぎ始めた綱吉をぼうっと見つめる。 ああやってると人の子にしか見えないんだけどなぁ… 魔王が実は女王で綱吉がその息子で。 次期魔王に狙われてて今逃走中で僕が神孫で次期魔王に対抗出来るかもしれない切り札で。 「………実感が沸かない。」 こんな話聞いたら人はハンと鼻先で笑うだろう。 というか僕が笑いたい。 草の上に仰向けで寝転がる。 いつ連中が襲ってくるか分からないからトンファーは常に出しっぱなしだ。 いつまでもこの逃走劇を続けているわけにはいかない。 ………これからどうしたらいいのだろうか。 『決まっている。お前がしたいようにするんだ。』 「!」 ガバリと身を起こす。 脳内に響く声。どこから… パシャン… 水面から空中に躍り上がる大きな魚。 ポチャンと音を立ててまた水に戻るそれの優美な姿に惹かれ水面を覗き込む。 鯉。銀色の鯉がいる。 『縛るものは何も無し。 仕える主も今は無し。 現を彷徨え。追放者の如く。 神が生きる限りお前に安息の地は無し。』 「!それは…」 『お前の受けた託宣だ。そして俺がこれを託した。』 「………何者だい?」 水面に口先を出し鯉が瞬く。 …瞼のある魚。いよいよ妖しいね。 『そう警戒するな。俺は沢田の関係者だ。名はラル・ミルチ。 原初の魔女と人は呼ぶ。』 続く… |