第九話






「えっく…ひっく…」


誰かの泣き声。

普段は気に止めもしないが不思議とそれに惹かれ、茂みを覗き込む。


「うえぇ…ふっ…ひっく…」


うずくまって泣いているキャラメルブラウンの子犬。

見た目は少年だが、幼子独特の甘い体臭が抜け切れていない。魔族…か?

まだ生まれてそれほど月日は経っていないはず。

少し、変わった気を持つ子どもに興味を惹かれた


「何を泣いているのですか?」


僕が声をかけるとビクリと体が揺れた。

恐る恐る顔をあげる少年。

…おや、この子は。昨晩、標的の男といた…

彼は僕を見るとさあ、と青ざめた顔で後じさった。


「あ…」

「待ちなさい。」


逃げ出そうとした子どもの腕を掴む。茨の中にいたせいで全身傷だらけだ。

…しかしおかしいですね。これくらいの傷、魔の者ならばすぐに完治するはず。


「やだ、いや!」


少年は今にも泣きそうな顔で僕から逃れようと暴れる。何か怖がっているようだ。

見たところかなり弱っているのが分かる。少し、錯乱状態に陥っているようにも見えた。

僕は細い体を引き寄せ鳩尾に拳を叩き込む。

糸が切れた人形のように少年が崩おれた。異様に軽い子どもを抱え上げる。

…どうやって標的と接触しようかと思っていましたが…まさかあちらから来てくれるとは。


「日頃の行いの、賜物ってやつでしょうかね。」


* * * *


現実は痛くて辛いことばかりで。

悲しくて寂しくて。

だから夢の世界にいるのが好きになった。

夢ならお腹もすかないし、暖かくて優しい。

それに壊れてなくなってしまったあの天使にも会えるから、寂しくなかった。


でも、山本に会ってからはちょっと現実にいるのも好きになった。

俺よりちょっとだけお兄さんの山本は、強くて優しくて…一緒にいると夢と同じ心地よさを感じられた。


だから、俺はつい忘れてしまったのだ。

こちらが冷たい現実であることを。


人は暖かい振りをして本当は刃のように冷たくて痛い酷い種族だ。

昔、まだずっと体が小さかった時、俺は人間が大好きだった。人になりたくて仕方なかった。

でも、ほんの少しのきっかけで人間はこの世の何より残虐で冷酷な存在に変わる。

俺はそれを見てきたし、体感した。

あれは関わってはいけない種族なんだ。


今も昔も俺の心を抉るのは、守りたかった人間なんだから。


* * * *


「………」


一番に目に入ったのは綺麗なシャンデリア。

…どこ、ここ?

体を起こす。腕がガクガクする…お腹すいたから…

俺は大きなフカフカのベッドの上に寝かせられていた。隣には大きなクマのぬいぐるみ。

豪華だけど…子ども部屋なのかな?可愛い感じの小物が沢山ある。

なんだかんだ言っても俺もまだ子どもなわけで。ぬいぐるみとか、嫌いじゃなくて…

つい、誘惑に駆られてクマを抱き寄せる。さらさらしてて気持ちいい。

ぎゅむりと抱きしめていたらゴーンと置き時計が鳴り始めた。

ってそうだ、呆けてる場合じゃない!

俺は慌ててベッドから飛び降りた。急に動いたからクラクラするけどそれどころじゃない。

さっきの人、皇位クラスの吸血鬼だった。

俺は自分より上位の吸血鬼の近くにいるとヤバいことになるんだ!

服はもう、どうでもいい。装備が無くなるのは痛いけれどまた集めればいいや。荷物はテーブルの上にあった。それを引っ付かんで窓に手をかける。

行く宛は無い。今までもなかった。


「お行儀の悪い子ですね。ちゃんと扉から出なさい。」


窓を開けようとした所でヒョイと体を持ち上げられた。後ろを見るとさっきの吸血鬼。

彼は呆れた顔で俺をベッドに戻す。


「その酷い顔色ではまだ外に出せませんけどね。」

「あのっ!」

「はい?」


左右で違う色の瞳がこちらを向く。

優しそうな人だけど相手はもの凄くプライドの高い皇位クラスだ。怒らせたら後が怖い。

当たり障りが無い理由をつけて、早くここを離れないと…


「さっきは失礼な態度を取ってすみませんでした。でも俺、もう行かないと…」

「おや、もう?」

「連れがいるので…」


ズキリと自分の言葉に痛みが走る。

もちろん嘘だ。でももう慣れた。

俺がベッドから降りようとするとやんわりと止められた。


「おかしいですねぇ…急いでいるようには見えませんでしたが?」

「そんなことは…」

「僕は自分の領域の事は全て分かるんですよ。君がここの庭に泣きながら飛んできたのも、長いことあの茨の中にうずくまっていたのも知っています。」


するりと頬を撫でられる。くすぐったくて首を竦めた。


「その連れの方と喧嘩でもしたのですか?あんまり悲しい声で泣くので気になってしまって…」

「…はい。そんなトコです。だからもう…」


行かないと。

そう言おうとしたところで口にグラスをつけられた。中は、トロリと揺れる赤い…血?

俺はベッドの上をずり下がる。グラスからなるだけ離れようと体を縮こまらせた。

血…あれは人の血だ…!

俺が身を引いた事でグラスの中身が少し零れた。彼は手についたそれを舌で舐めとる。


「…どうしたのですか?お腹がすいているのでしょう。」

「い、いえ…」

「…遠慮せずともいいのですよ?」

「い、いりません。お気遣いありがとうございます…」

「そうですか。」


彼は不思議そうな顔で俺を見やり、グラスを呷った。

血の匂い。ああ、ヤバい…、また…

クラリと視界が揺れた。

この人から離れなくては。

そう思うのに、体が小刻みに震え始めて、力が抜ける。

空間移動なんて無茶をした反動が来たのだ。

くったりとベッドに横になると頭を撫でられた。


「クフフ…こんなに幼い同族に会うのは初めてです。これも何かの縁なのでしょう。回復するまでここにいるといいですよ。」

「…ありがとうございます。」


――いいや。ここにいては駄目だ。

本当は今すぐにでも彼に飛びかかりたい衝動が襲ってきて…

俺は目を閉じ唇を噛み締めることでそれに耐える。


俺が禁じられた実を食らい、自身の血で飢えを誤魔化している理由。

魔物の生活区域から離れ人の世界に紛れている理由。


同族喰らい。

俺は自分と同等、または上位の吸血鬼の血を糧とする異形なのだ。


* * * *


探す宛てもない。

しかしじっとなんてしていられない。

自分より長く生きている癖にまだあどけなさの抜けない小さな魔族。

今頃神父も街中を駆け回っている筈だ。


何故、あんなことを言ってしまったのか。


彼が最後に言った言葉が胸を貫く。

あの子は確かに秘密を抱えていたが計略や打算と言ったものは何一つ持っている筈がないのに。

他者に対して攻撃的な自分の性質を恨んだ。

あんな下手な嘘までつかせてしまった。

あの子は人が傷つくのを見るのも嫌いなのに。

狐と戦った森まで戻る。

赤い膜に守られたお陰であの狐女を相手にあそこまで戦えた。

あの子は必死で僕を守ろうとしてくれたのに。

握りしめた拳から血が流れる。


「こんにちは。」


ぞわりと空気が揺れた。

いつの間にか、目の前に黒いマントを羽織った男が立っていた。

…気配はしなかった。魔族…?

だが男は薄気味悪い笑みを浮かべてはいるものの攻撃してくる様子はない。


「そう警戒しないでください。僕は聖血に興味はありませんので。」

「…何の用なの。」

「神父様はお元気ですか?」


色の違う目を歪めて男は笑う。

神父?あの神父の事?


「彼とは長い付き合いなもので。久々に会ってゆっくりと話したいと思っているのですがどうにも機会が合わないんですよねぇ。」

「…避けられてるんじゃないの?」

「そうかも知れませんね。」


男は何が楽しいのか分からないけれどクスクス笑って僕に小さな箱を差し出してきた。


「これを、獄寺氏に渡して頂けますか。」

「何。変な物じゃないだろうね。」

「ご心配なく。多分貴方も興味を示されるはずですよ。」

「?」


なんかこいつムカつく。

でもその箱は拒否してはいけない気がする。

僕がそれを受け取ると男はふわりと宙に浮き上がった。


「では。お願いしますね。」


パンと乾いた音をたてて男が数羽の鴉に変わった。

それらが羽ばたいて行くのを見送り、僕は手の中の箱に目を落とした。


* * * *


俺はあの人に何度救われた事だろう。

尽きた命を繋げてくれた。

新たな力は俺に居場所を与えてくれた。

あの人がいなくては俺は生きて居られなかった。

…実は恨んだこともあった。

何故俺だけ助けたのかと。

しかしその恨みすら俺を生かす理由になった。


他人が俺をなんと呼ぼうと、上がどんな期待をかけようが関係ない。

俺が仕えるのは神サマでも教皇でもない。

弱くて小さくて…寂しいあの偽物の『天使』ただ一人なのだから。


* * * *


雲雀に渡された箱。

中から出てきたのは銀細工の赤い石のついた大ぶりのロザリオ。


「雲雀…!これをどこで…!?」


これは、沢田さんがベルトに着けてた…!?

雲雀も気付いたようで険しい顔になった。


「赤と青の目の男に渡されたんだ。君の知り合いだと言っていた。」

「!!」


骸。

六道 骸だ…!

あいつ、まだ俺の周り嗅ぎ回ってやがったのか!


「君とゆっくり話がしたいとかなんとか抜かしていたけれど…」

「くそっ…!」

「待ちなよ、どこに…」

「あいつの屋敷だよ!!」


骸は教団でも有名な吸血鬼だ。

普段はなんの危険性もない皇位魔族だがスイッチが入れば恐ろしいほどの残虐性を発揮する。

あいつは俺が変な能力を使うのを知ってその理由を知りたがっていた。

俺に変化が現れたのは生き返った後のことだ。それを他言したことはないがあいつは薄々感づいている。

死んだ人間を蘇らせる。

そんな特異な力をあの人が持っていると知れたら…

それに、沢田さんはその能力を抜きにしても魔族としては異端過ぎる。

あいつが興味を持たない筈がない。


「あの人になんかしやがったらぜってー果たす…っ!!」








続く…





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